5月27日は「百人一首の日」です。
これは藤原定家の『明月記』の文暦2年(1235)5月27日の項に、定家が親友の宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めにより和歌百首を書写し、これが嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)の障子に貼られたとあって、これが百人一首の初出ではないかと考えられたことによります。
『予本自不知書文字事。嵯峨中院障子色紙形、故予可書由彼入道懇切。雖極見苦事憖染筆送之。古来人歌各一首、自天智天皇以来及家隆雅経。』
さて、明月記の文章は読みようによっては、選んだのは「彼の入道」つまり頼綱であって定家は単に書いただけとも読めます。しかし現在の定説としては、やはり百人一首を選んだのは定家本人であり、この記事より少し前に選定が終わっていたと考えられています。この件に関して詳しいことは「百人一首」(島津忠夫訳注・角川文庫ソフィア)の巻末解説をごらんください。諸説が整理されています。
藤原定家(1162-1241)は新古今和歌集の撰者として知られていますが、必ずしもこの和歌集に満足しておらず、改めて百人の歌人の歌を一首ずつ選ぶというこの「百人一首」を編集したとも言われています。この新古今和歌集に関わった人でもう一人後鳥羽上皇も、やはりこの和歌集に満足しておらず後に改訂版を作成しています。
秋の田のかりほの庵のとまを荒みわが衣手は露に濡れつつさすがにいい歌の揃った歌集です。
百人一首といえば、現代では「かるた」というイメージがあるのですが、百人一首のかるたが作られたのは17世紀初頭と考えられます。
戦国末期から安土桃山時代にかけて、西洋から現在のトランプやタロットの原型のようなカード(カルタ)が入ってきました。これに刺激を受けて国内でもいろいろなカルタが製作され、最も古い物では、元和年間(1615-1624)頃に作られた百人一首カルタが現存しています。カルタが登場する以前は、百人一首は歌仙絵などの形で鑑賞されていました。
カルタの発達については、上記「百人一首」の解説や、「日本のかるた」(濱口博章・山口格太郎著/保育社カラーブックス)の巻末解説をごらんください。
(1999-05-26)