さて、この味鋤高彦根神について、もっと詳しく調べてみようという気にな ったのは、何かで古事記を読んでいて、下記の記述を見つけた時でした。
此大國主神、娶坐胸形奥津宮神、多紀理比賣命、生子、阿遅鋤高日子根神。
次妹高比賣命。亦名、下光比賣命。
此之阿遅鋤高日子根神者、今謂迦毛大御神者也。
大國主神、亦娶神屋楯比賣命、生子、事代主命。
この大国主神、宗像にいます奥津宮の神・多紀理姫の命を娶りてなす子、
阿遅鋤高日子根神。次いで妹・高姫命、またの名を下光姫(したてるひめ)命。
この阿遅鋤高日子根神は、今にいう『かもの大御神』なるぞ。
最後の1行は後で旧事本紀を引きますので、その比較のために書きました。
要するに古事記はこの味鋤高彦根神が「賀茂の大御神」であると言っている のです。古事記が「大御神」などとすごい称号を付けるのも異例ですが、何 よりも「賀茂」という記述が私に衝撃を与えました。
それまで賀茂の神様というと、京都・上賀茂神社に祀られている賀茂別雷神 とその母の玉依姫、そのまた父の賀茂建角身命、といったところしか頭にな かっただけに、ここに突如「賀茂大御神」と呼ばれる神様がいたことに気づ き、私の頭の中は混乱しました。
古事記における味鋤高彦根神と下照姫に関するエピソードというのはひとつ
だけです。それは葦原中国平定の中で、天若日子の葬儀に関する部分です。
古事記になじみのない方のために概略を説明します。
天照大神は地上の国も高天原の管理下にあるべきであるとして、地上を支 配していた大国主神のところへ、天菩比神(*1)を派遣し支配権を譲るよう 交渉させました。ところが天菩比神は大国主神にうまく丸め込まれてしま い、3年たっても復命しませんでした。
そこで天照大神は次に天若日子を地上に派遣しました。ところが天若日子 は大国主神の娘の下照比売(味鋤高彦根神の妹)と結婚してしまい、8年た っても復命しませんでした。
そこで思金神が鳴女という名の雉を地上に遣わして、天若日子の様子を伺
わせました。鳴女が天若日子を見つけて「お役目はどうなったのですか?」
と聞くと、天若日子は後ろめたいので、彼女を射殺してしまいます。そし
て、その鳴女を射た矢は彼女を貫通して、天まで飛んできました。
その矢を高木神が拾いました。見ると自分が天若日子に渡した矢で血が付 いています。そこで高木神が「天若日子がもし正しい心を持っていて、こ れは悪い神を射た矢がここに飛んできたのなら、この矢、天若日子に当た るな。しかし天若日子が邪心を持っているなら、この矢に禍れ」と言って 矢を投げ返すと、その矢は天若日子の胸を射抜きました。
これを「還し矢」と言います。
天若日子が死んで、妻の下照姫が泣いている声が天まで届いてきたので、 その父神が愚かな息子の死を知り、地上に降りて葬儀を執り行うことにな りました。その時、下照姫の兄で天若日子の友人でもあった味鋤高彦根神 が葬儀に訪れます。すると味鋤高彦根神の風貌が天若日子と似ていたため、 天若日子の父は「息子が生きてた」と言って、その足にしがみついて泣き ました。
それにびっくりした味鋤高彦根神は「死人と間違えるな」と言って怒って
喪屋を剣で切り倒してしまいます。そして下照姫は「これは私の兄ですよ」
と歌を詠んで、みんなに告げるのでした。
古事記のストーリーではこの後、高天原は平和的交渉を諦め、軍神の経津主神 と武甕神を派遣して、武力を背景に国譲りを迫ることになります。
さて、講談社学術文庫の「古事記」(次田真幸編)の解説に、この味鋤高彦根神 とその弟である事代主神について、注目すべき記事が載っていました。
それは、味鋤高彦根神は奈良県御所市の高鴨阿治須岐託彦根命神社に祭られ ており、事代主神は同市の鴨都味波八重事代主命神社に祭られている、とい うものでした。
しかしこの講談社学術文庫の古事記・日本書紀は概して、これらの記述その ものの信憑性を疑ってかかる、津田左右吉・古代否定論の流れの影響の強い 本で、私はこれらの本の解釈・解説をあまり信用していません。
そのため、この記述についても「事代主はやはり出雲の神様でしょう」と思 って、信用していませんでした。
しかし、それは本当だったのです。それを知るのはこの賀茂大神の「発見」
から1年ほど後のことでした。
今テレビを見ていたら、この亀戸天神が出ていました。藤が見頃 だそうです。そういえば今、全国、藤の季節でもありますね(^^)