賀茂探求(30)伊豆/広瀬神社

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written by Lumi on 00/05/12 13:47.

三島駅から伊豆高原鉄道に乗り、田京で下車。駅を出て右手の道をまっすぐ 5〜10分ほど歩くと右手に広瀬神社の広い境内が見えてきます。

神社の向こう側にはユニークな形の葛城山の姿が見えます。歩いてみて感じ たのですが、ここには奈良の葛城古道と似た雰囲気の空気が流れているよう に思いました。

広瀬神社の御祭神は溝樴姫命(みぞくいひめのみこと,杭に同) ほか二神。こんな田舎にありますが、れっきとした式内社です。広瀬明神・ 深沢明神・福沢明神などと呼ばれて来ました。

※樴(木織])= 私がこの神社を訪れてみようと思ったのは、伊豆半島内の三島神社を静岡県 のガイドブックで調べていたとき、ふと、この神社の御祭神が目に留まった からです。この溝杭姫という名前から、私はつい先日読んだ旧事本紀の記述 が思い浮かびました。それを下記に引用します。

都味歯八重事代主神  化為八尋熊鰐通三嶋溝杭女活玉依姫。生一男一女。
 兒天日方奇日方命。此命、橿原朝御代、勅為食國政申大夫供奉。
 妹韛,たたら,鞴に同)五十鈴姫命。此命、橿原朝 立為皇后誕生二兒。即神渟名河耳天皇。次彦八井耳命是也。
 次妹五十鈴依姫命。此命葛城高丘朝、立為皇后。誕生一兒。
 即磯城津彦玉手看天皇也。

都味歯八重事代主神(つみは・やえ・ことしろぬしのかみ)、 八尋(やひろ)の熊鰐(くまわに)に化して、三嶋の溝杭の娘・玉依姫のもと に通い、一男一女をなす。
 
 まず男の子、天日方奇日方命(あめひかたくしひかたのみこと)。この みことは神武天皇の御代に国の政治をつかさどる大夫の役を命じられ、 お仕えした。
 
 次に女の子、鞴五十鈴姫命(たたらいすずひめのみこと)。このみこと は神武天皇の皇后になられ、皇子おふたりをお産みになった。これは まず綏靖天皇、そして彦八井耳命。
 
 またそのほかに事代主神には女の子がおり、五十鈴依姫命と申しあげる。
 このみことは綏靖天皇の皇后になられ、皇子をおひとりお産みになった。
 これは安寧天皇である。

三嶋の溝杭は日本書紀では三島溝橛耳神と書かれており、また 古事記では三島湟咋と書かれていますが、いづれも「みぞくい」で同じです。

※橛(木厥) =   韛(韓]鞴]) =

神武天皇皇后の名     母の名     その父の名 旧事本紀 鞴五十鈴姫        活玉依姫    三嶋溝杭 日本書紀 姫蹈鞴五十鈴媛      玉櫛媛     三島溝橛耳神 古事記  比売多多良伊須気余理比売 勢夜陀多良比売 三島湟咋

なお古事記では、鞴五十鈴姫は、勢夜陀多良比売が川で大物主神が変身した 矢を拾い、それに感応して生んだ子であるとしています。玉依姫という名前 と矢に感応して生まれた子供という設定は、京都賀茂神社の賀茂別雷命が生 まれた経緯と同じで、同一ルーツの伝説であると考えられます。

さて、そういう細かい話は抜きにして、とにかくこの広瀬神社の御祭神は、 この三島溝杭関連の神であろうと考えましたので、最初伊東の神社を幾つか 訪問するつもりだったのを取りやめ、こちらにやって来ました。

そして、この神社の由緒書きを見て、私はここに来たのは正解であったと思 ったのでした。

延喜式内社であり、神階帳従一位広瀬の明神という。祭神は溝樴姫 外二神。見目神社・龍爪神社など八社を合祀、祖霊社を祀っている。
  田方一の大社である。
  社伝によれば、三嶋大社はその昔下田の白浜からこの地に移り、後に 三島に遷祀したという。
  天正十八年(一五九一)、豊臣秀吉による韮山城(北条氏)攻めの際 兵火に遭い社殿ことごとく焼失している。慶長元年(一五九六)に再建、 江戸時代には深沢明神として崇敬された。明治二八年(一八九五)より 広瀬と称える。(*1) 例大祭は毎年十一月三日に行われ、大仁町指定無形文化財の式三番が 奉納される。
  (以下はあまり関係ないので略)

(*1)延喜式では「廣瀬神社」@田方郡である。つまり本来の名前に復し たことになる。

三島大社が白浜から三島の現在地に移る途中、一時期ここにあったという話 はこの時、初めて聞いたのです。

現在、ほんとうにここに三島神社があったのかについては、必ずしも肯定は されていないようですが、三島溝杭姫という、事代主神に深い関わりのある 神様がお祭りされている以上、その可能性は十分あると私は思います。

さて、この「三島溝杭姫」ですが、名前からして三島溝杭の娘である、鞴五 十鈴姫のことか、あるいはそのお母さんである玉依姫のことであろうと考え ていたのですが現在、事代主の妃である玉依姫のことであろうという判断に 傾いています。

それは、出雲の揖屋に下記のような伝説があるからです。

昔、美保関の恵比須様が毎晩諸手船で揖屋の溝杭姫の所へ通われ、鶏が 鳴いてから帰られるのが常であった。ある晩、鶏がときを間違えて早く 鳴いたため、ミコトはあわてて出発された。このとき船の櫨を忘れられ たので、足で水をかかれたところ、ワニに片足を食われ負傷された。そ れで美保関町民は鶏を忌みきらい、鶏を飼わないだけでなく卵も食べな いのである。(道中話つ観光ガイドブック/出雲路・大山・鳥取砂丘− 錦織好孝)

ここでははっきり事代主神の奥様の名前が溝杭姫と、はっきり出ています。
そして旧事本紀でワニに変身して通っていたという話がここでは通っている 最中にワニに足をかじられたという話に変化しています。なお、地理的には 美保関から揖屋に行くには、汽水湖の中海(なかうみ)を通ってくることに なります。海水と淡水が入り乱れていますので、ワニ(出雲では鮫のことを ワニと言う)が出てもおかしくないでしょう。

なお、ここで溝杭姫がおられた場所は神社か何かになっていて良さそうなも のですが、まだ場所を特定できずにいます。その界隈の神社を調べているの ですが、関連のありそうな神社が見つかりません。

ところで、上記のような話をすると、それでは事代主神溝杭姫の所に通う 話が出雲にある以上、この話のルーツは出雲で、事代主神溝杭姫は出雲の 神様なのでは、と思われる方もあるかと思います。それが後に、伊豆にも伝 わってきたのではないかと。

あるいは、私もこの当時はそう思っていたのですが、この溝杭姫のおられた 三島というのが、三島市のこと、あるいは三宅島・伊豆大島・八丈島の三島 のことで、溝杭姫のところへ来るため、事代主神は出雲から伊豆へ移動され たのではないか。そう考えられる方もあるのではないかと思います。

ところが、この三島溝杭姫の本来の御鎮座地は、あまりにもはっきりしてい ます。それについては、伊豆の話から外れてしまいますが、次の発言で触れ たいと思います。

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