安倍晴明(921-1005)

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寛弘2年(1005)9月26日、希代の陰陽師(おんみょうじ)で現在まで続く土御門家の祖ともいえる安倍晴明(あべのせいめい)が亡くなりました。85歳でした。

安倍家は家伝によれば孝元天皇(AD300年頃の人)の第1子である大彦命を先祖とし、その11代目に当たる倉橋麻呂がはじめて安倍姓を名乗りました。安倍倉橋麻呂は大化の改新後の新政府の左大臣(在職大化元年6月14日〜大化5年3月17日)を務め、倉橋麻呂の子供の安倍御主人(みうし)は文武天皇のもとで右大臣をつとめます(在職大宝元年3.21〜大宝3年閏4月1日)。

なお、倉橋麻呂の娘の小足媛は孝徳天皇の妃となり、有馬皇子を産んでいます(皇子は天智天皇のライバルであったため、蘇我赤兄の奸計により殺害される)。また大彦命は、物部神道で名高い、物部一族と関連の深い穂積氏の祖先でもあります。

また安倍御主人はその名前が竹取物語にも出てきます。彼はかぐや姫の求婚者の一人ですが、火鼠の皮を持ってきてくれと頼まれました。御主人は手を尽くして探して、やっと火鼠の皮というものを探し当てますが、かぐや姫の所に持っていって実際に火をつけてみると、あっけなく燃えてしまいました。かぐや姫の求婚者の中で、実は唯一実在の人物がこの御主人です。

そしてその安倍御主人の8代目にあたる大膳大夫(天皇の料理番の責任者,宮内省所属)安倍益材(ますき)が、晴明の父とされます。なお御主人の曾孫の安倍大家・安倍吉人の兄弟は陰陽頭を務めています。(益材・晴明は彼らの弟の粳虫の子孫)

この家系に生まれた晴明は最初父と同じ大膳大夫になりますが、その後、左京権大夫、穀倉院別当などを歴任し、最後は播磨守になっています。天文博士にも任じられていますが、歴任の順序はよく分かりません。ただそういった官位に応じた仕事のほかに、小さい頃から陰陽道(おんみょうどう)を伝える賀茂家の賀茂忠行に師事していたと伝えられ、その才能を高く評価されていたとされます。その結果、忠義の子でその後をついだ賀茂保憲は、後に天文道を安倍晴明に譲り、暦道を自分の息子に伝えました。そしてこの賀茂・安倍(後に土御門を名乗る)両家が日本の陰陽道の宗家となっていきます。

なお賀茂保憲は晴明と並び称される陰陽道の達人で、父がなれなかった陰陽頭になっています。また保憲の子供には陰陽頭になれた者はいませんでしたが、晴明の子の吉平・吉昌は陰陽頭を務めています。この時代には後世のように血筋だけで出世することは叶わず、実力主義の時代であったようです。

安倍晴明が陰陽師としてデビューしたのは天徳4年(960)頃であろうといわれているようです。

菅原道真の怨霊におびえて醍醐天皇が亡くなってから30年、皇位は醍醐天皇の子の朱雀天皇から、その弟の村上天皇へと引き継がれていました。この頃京都では時々怪異の噂があり、宮のあちこちで火事が起きています。この年の9月23日には、とうとう内裏が炎上しました。

そのような時代に晴明や保憲、そして同時期に民間で活躍した芦屋道満らの陰陽師たちは貴族たちの個人的依頼を受けて、種々の相談、祈祷、霊的防御、などの仕事に携わっていました。そのひとつひとつの業績は個人的相談であるが故に一切の記録は残っておらず、実際の所、彼らがどのようなことをしていたのかは不明です。

そういった彼らの事績をやや誇張された形で伝える伝説を幾つか拾ってみましょう。

 ・晴明が寛朝の所で歓談していた。そこへ若い公達や僧が来て言った。「あなたは式神を使うというが人を殺すことができるか」「殺すことはできますが、生き返らせることはできませんからね」「そこにいる蛙などはどうです。あれを殺せませんか?」「罪作りですね。しかし私をお試しとあらば」晴明は近くの草の葉を取り、何やら呪文を唱えて蛙の方へ投げた。すると蛙がつぶれて飛び散った。

 ・ある時晴明は蔵人少将に烏が糞を掛けるのを見た。これは呪詛の道具だと見破った晴明はその晩少将の体を抱いて護身の法を施し、一晩中呪文を唱え続けた。朝戸を叩く者があったので開けてみると、少将の相聟であった。彼は詫びて言った。貴方を恨んで陰陽師に貴方を呪殺させようとしました。ところがその陰陽師の放った式神が、貴方の陰陽師に妨害され返されてしまい、放った陰陽師自身が打たれて死んでしまいました、と。

 ・晴明の家の戸は誰もいない時にも勝手に上がったり降りたりしていた。人はこれは晴明が式神にやらせているのだろうと噂した。後、晴明が結婚してから、その式神の顔を妻が恐がったので、晴明は式神を一条戻り橋の所に置くようになった。

 ・播磨の陰陽師智徳が晴明と力比べをしようとしてやってきた。晴明は智徳が連れている二人の童子が式神であると見て取ったので、それを自分の術で隠してしまった。智徳はいざ晴明に挑もうとしたら肝心の式神がいないので慌てて、それが晴明の力と知って降参した。

 ・晴明がまだ幼い頃、賀茂忠行に従って道を歩いていた所、向こうから鬼たちがたくさんやってくるのが見えた。晴明はただちに牛車の中で寝ていた師匠を起こして知らせた。忠行は隠術によって自分と供の者はみな鬼たちに見えないようにして難を逃れた。

 ・後に花山天皇が藤原兼家・道兼親子の陰謀で出家してしまった時、晴明の家のそばを通りかかると、家の中から声がして「天変があった。どうも天皇が譲位なさってしまったようだ。直ちに参内する」と言っていた。すると目に見えないなにかが戸を押し開け「今ここを帝が過ぎていかれるようです」と家の中へ声を発した。

伝説の中には、晴明を狐の子供とするものもあります。それによれば晴明の父は保名といい、母は信田の森の狐で、保名に助けられたのを恩に感じて人間の姿に変じ葛葉姫と名乗って保名に嫁ぎ、晴明を産んだ。しかし姫は、のちにその正体がばれてしまい、森に帰っていく。

  恋いしくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉

という歌を障子に書き残して。そして晴明が成長してから森に母を探しに行った所、狐が現れて竜宮の秘宝の水晶の玉を授けた。晴明はこの玉により世の中のできごとを全て知ることができた。

別の伝説では晴明は熊野の那智で千日間山に籠もり、毎日2時間滝に打たれて修業した行人であるともされています。

結局安倍晴明という人は、伝説の部分が大きく膨らんだ割に正規の記録に残る事績のほとんどない人で、その実態は謎に包まれています。

家伝による晴明の先祖が物部神道と関わっているというのは少し面白い話です。また一方の賀茂家の方ですが、こちらは賀茂神社や葛城の賀茂大神そして役行者(えんのぎょうじゃ)などとも関連があるようです。これは安倍・賀茂両家により陰陽道の宗家が確立した背景には、両家が実は古代の秘教を密かに受け継ぐ家系であった、などという大胆な想像をしてみることをも可能にさせるくらいの、ロマンにあふれた糸です。

ところで、晴明の母について、最近岡野玲子さんが書いておられた仮説はたいへん興味深いものです。彼女は晴明の2人の息子の名前に「吉」の字が入っていることに注目しました。また、晴明が下級役人の身にしては、一等地に屋敷を構えていたこと、そして母親が「きつね」であったという伝説などからして、晴明の母は、源平藤橘のひとつ、橘家の血を引く人物ではなかったか、という推理をしておられます。詳しくは白泉社から刊行されている「陰陽師」(夢枕獏原作・岡野玲子著)の8巻をごらん下さい。


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