この神は大国主神と宗像の三女神の中の多紀理姫との間の子で、下照姫の同母兄になります。事代主神(えびす様)・高照姫の従兄弟ということにもなります。
はじめ葛城の高鴨阿知須岐託彦根命神社に御鎮座され、そこで賀茂大神と呼ばれました。この名称は古事記にあります。
土佐神社では、この神は土佐大神と呼ばれていますが、この土佐大神は味鋤高彦根神であり、また一言主神であって、雄略天皇が葛城山で狩りをした時に、天皇の怒りにふれて、この土佐に流されたのだとされます(続日本紀の記述。日本書紀と古事記では天皇と一言主神は至って互いに尊敬し合ったことになっている)
それが、朱鳥元年(686)に、秦石勝が天皇の病気平癒を祈願するため、土佐まで来て土佐大神に祈り、更には天平宝字8年(764)に高賀茂田守が、御祭神を元の通り、高鴨阿知須岐託彦根命神社に復した上で、改めてその和魂(にぎみたま)を土佐神社に御鎮座せしめたということです。
つまり、土佐神社は味鋤高彦根神にとって、第二の拠点であり、かつ、この縁起によれば、謎の多い一言主神は実は味鋤高彦根神の別魂である可能性があることが分かります。
このあたりの突っ込んだ話は賀茂随想の項で触れるとして、この神の神話について触れておきます。それは天若日子(あめのわかひこ)の話に絡んだものです。
高天原では、葦原中国を平定するため、最初天菩比神を派遣しますが、天菩比神は3年たっても戻って来ませんでした。そこで次に天若日子が派遣されるのですが、天若日子は味鋤高彦根神の妹の下照姫と結婚し、8年たっても戻りませんでした。
ここで高天原の神々は天若日子の所へ使いとして雉鳴女を遣わします。雉鳴女が「あなたの使命はどうしたのです?」と天若日子を問いただすと、天若日子は弓矢で雉鳴女を射殺してしまいます。この時雉鳴女を射抜いた矢が高天原にまで達して、その矢を高産巣日神が拾いました。見るとそれは自分が天若日子に渡した矢です。
そこで高産巣日神は「天若日子が使命を忘れておらずこの矢は誰か悪者が放ったものであれば天若日子には当るな。もし天若日子の邪心があればこの矢に当れ」と言って矢を下に落しますと、見事に天若日子の胸を射抜きました。(これを還し矢といいます)
天若日子の死を嘆く下照姫の鳴き声が天上まで響くと、天若日子の父は哀れんで地上に降り、葬儀の手配をしてやりました。そこに味鋤高日子根神も当然弔いに訪れたのですが、高日子根神が天若日子とよく似た風貌であったため、まだ地上にいた天若日子の父が「私の息子が生きていた」と言って抱きついて来ました。すると味鋤高日子根神は「間違えるな」と怒って、剣を抜いて喪屋を切り倒したということです。
このエピソードについて、心理学系の研究者の中には、味鋤高日子根神がその名前からして農業神と考えられるとして、これは植物が一度枯れても翌年また新しい種から再生することを象徴しているのではないか、と解釈しているようです。
また、古事記のこの部分の記述は、古代の葬儀の様子を伺う資料として、たいへん貴重なものです。
なお、福島県の都々古別神社(上宮:棚倉町馬場、中宮:棚倉町八槻、下宮:大子町下野宮)は、ヤマトタケル尊がこの地の東夷の将を倒した時、都々古別山に平国の鉾を立て、そこに味鋤高彦根神をお祀りしたのが起源であるとのことです。つまり、ここもかなり古い神社です。その縁起から中世には武神としても崇敬されました。