天孫降臨について

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天孫降臨の話は基本的には高天原の神々がその直系の神を地上の支配神して降ろし、地上を支配していた大国主神から国土を譲り受ける話なのですが、これは次のようにして進行します。

(1)天菩比神と天若日子の派遣
(2)建御雷神と事代主・建御名方神の交渉
(3)迩迩芸命の降臨
(4)迩迩芸命と木花之咲夜姫

この順に基本的に古事記にそってストーリーを追っていきましょう。

天照大神は地上の国は自分の子供の天之忍穂耳命(正しくは正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命。須佐之男神との誓約で生まれた子)が治めるべき国である、と言って天之忍穂耳命を地上に降ろそうとしますが、天之忍穂耳命は地上は騒がしくて手に負えませんと言って帰って来てしまいます。

そこで高天原の神々の合議の結果、天之忍穂耳命の弟の天菩比神(天穂日神,あめのほひのかみ)が地上の国を高天原に従わせる為に派遣されることになりますが、天菩比神は大国主神の家来になってしまい、3年たっても戻って来ませんでした。

そこでまた合議の結果今度は天若日子(あめのわかひこ)が派遣されることになります。ところが天若日子は地上に降りると美濃の国で大国主神の娘の下照姫と結婚し自分がこの国の王になってやろうと考え8年たっても戻りませんでした。

ここで高天原の神々は天若日子の所へ使いとして雉鳴女を遣わします。雉鳴女が「あなたの使命はどうしたのです?」と天若日子を問いただすと、天若日子は弓矢で雉鳴女を射殺してしまいます。この時雉鳴女を射抜いた矢が高天原にまで達して、その矢を高産巣日神が拾いました。見るとそれは自分が天若日子に渡した矢です。

そこで高産巣日神は「天若日子が使命を忘れておらずこの矢は誰か悪者が放ったものであれば天若日子には当るな。もし天若日子の邪心があればこの矢に当れ」と言って矢を下に落しますと、見事に天若日子の胸を射抜きました。(これを還し矢といいます)

天若日子の死を嘆く下照姫の鳴き声が天上まで響くと、天若日子の父は哀れんで地上におり、馬鹿なわが子の為に葬儀の手配をしてやりました。また友人(というか下照姫の兄)の味鋤高日子根神も弔いに訪れましたが、高日子根神が天若日子とよく似た風貌であったため、まだ地上にいた天若日子の父が「私の息子が生きていた」と言って抱きついて来ました。すると味鋤高日子根神は「間違えるな」と怒って、剣を抜いて喪屋を切り倒すという一幕もありました。

さて、高天原では次に誰を派遣するかという話になるのですが、やはり強い神でなければならないということで、建御雷之男神(たけみかづちのかみ)経津主神(ふつぬしのかみ)が派遣されることになります。

先に派遣された神様たちに比べて、建御雷之男神と経津主神はたいへん任務に忠実でした。神は大国主神の前にズカズカと進み寄り、剣を抜いて地面に突き刺して「この国は天照大神の子が治めるべき国である。そなたの意向はどうか」と言います。すると、大国主神は、自分が答える前に息子の事代主神に尋ねるようにと言います。

そこで建御雷之男神は美保ヶ崎に行き事代主神に国譲りを迫ると、事代主神はあっさりと「承知しました」と言って家に引き篭ってしまいます。そこで建御雷之男神は再び大国主神に「他に何か言う奴はいるか?」と聞きますと、大国主神は「もう一人の息子、建御名方神にも聞いてみてくれ」と言います。

建御名方神は事代主神に比べると荒っぽい神様でした。建御雷之男神が国譲りを迫ると、建御名方神は巨大な岩を抱えて来て、力比べを挑みます。そして「どれお前の手をつかんでやる」と言って建御雷之男神の手を握ろうとすると、建御雷之男神の手はたちまち剣の刃に変化しました。建御名方神は慌てて手を引っ込めます。そして今度は建御雷之男神が「では今度は俺の番だ」と言って建御名方神の手を握ると、建御名方神の手は草にようにぎゅっと握りつぶされてしまいました。

慌てて建御名方神は逃げ出しますが、建御雷之男神も追いかけていきます。二人は追いかけっこをして、とうとう諏訪湖までやってきました。そしてもう逃げ切れないとみた建御名方神は、俺はもうこの地から出ないから殺さないでくれ、と嘆願するのです。建御雷之男神もこれで目的を達したとして、その言葉を信じ、再び大国主神の所に行って、さぁどうすると尋ねます。

すると大国主神は「二人の子供が高天原の神に従うというのであれば私も逆らわないことにしましょう。その代わり私の住む所として天の子が暮らすのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい。私はそこで幽界の支配者になりましょう。現世のことはあなたたちにお任せします。私の180人の子供たちも事代主神に従って貴方たちには抵抗しないでしょう」と言いました。そこで建御雷神はそのような立派な宮殿を建てさせ、高天原に復命しました。

(大国主神の子の数は古事記では180になっていますが、日本書紀では181になっています。これは諏訪湖に行ってしまった建御名方神を外して数えたもの??)


さて、地上の国が天照大神の子に譲られることになったので、天照大神は最初の予定通り天之忍穂耳命を下らせようとしますが、この時天之忍穂耳命に子供が生まれたので、その子(天照の孫)迩迩芸命が代わって降臨することになりました。

この迩迩芸命(正式には天迩岐志・国迩岐志・天津日高日子番能・迩迩芸命)には八尺の勾玉・鏡・草薙剣の三種の神器が渡され、天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命・思金神・手力男神・天石門別神・登由気神・天石戸別神・などの神が付きしたがって地上へと降りて行きました。

この時、道の途中に何やら見知らぬ神の姿がありました。ここで居並ぶ神たちは恐れをなして近付きたがらないのですが、天宇受売神が様子を見に行きます。そして「あなたは誰ですか?」と尋ねるとその人物は「私は国津神で猿田彦神といいます。天孫が降りて来ると聞き、道案内をする為にやってきました」と言いました。

そこで一行は猿田彦神に先導を頼み、地上へと降りて行くのです。神々が降り て来た地は宮崎県の高千穂の地でした。


さて、迩迩芸命が地上に降りてからある時、海岸で一人の美女に出会います。迩迩芸命が名を尋ねると「私は大山津見神の娘で木花之咲夜姫といいます」と答えました。そこで迩迩芸命は咲夜姫に結婚を申し込むのですが、咲夜姫は謹み深く「私の父に言って下さい」と答えます。

そこで迩迩芸命が大山津見神の所に行き、咲夜姫との結婚を申し込むと大山津見神は喜んで、では姉の石長姫も一緒に娶って下さいといい、たくさんの婚礼用品を添えて二人の娘を迩迩芸命の所にやりました。

ところが石長姫の方は不美人だったため、迩迩芸命は「この娘はいらない」と言って返してしまいます。すると大山祇神は「石長姫とも結婚していたら、あなたの子孫は石のように永遠の命を持っていたでしょうに。咲夜姫とだけの結婚でしたら、あなたの子孫は木の花のようにはかなく散り落ちていくでしょう」と残念そうにおっしゃいました。

さて、その咲夜姫ですが、迩迩芸命とは一度しか交わらなかったのですが、その一回の交わりだけで妊娠してしまいました。咲夜姫がそのことを告げると迩迩芸命は「たった1回交わっただけで妊娠するなんてことはありえない。それはどこか他所の男の子供ではないのか」と疑いの言葉を返します。

その言葉を不快に思った咲夜姫ですが、「これは間違いなくあなたの子供です。その証拠に私は火の中で子供を産みましょう。私が正しければ神の加護があるはずです」と言い、産気付くと家に火を付け、その中で3人の子供を産み落しました。その子供は産まれた順に、火照命・火須勢理命・火遠理命でした。

この中の火照命が別名海幸彦、火遠理命が別名山幸彦で、この二人が次の段の神話の主人公になります。


ところでこの神話は「天孫降臨」として知られるのですが、最初は「天子降臨」だったのではないか、というのが梅原猛氏の指摘するところです。この話が出てくる主な本は、古事記・日本書紀・万葉集なのですが、当然万葉集が一番古い資料です。そして古事記・日本書紀では確かに「天孫降臨」になっているのですが、万葉集では『日の皇子』という表現になっていて、『皇孫』ではありません。そこで梅原猛氏は万葉集の原型が作られたのがまだ持統天皇の子供の草壁皇子が生きていた頃で、その後草壁皇子が早死にしてしまい、持統天皇は孫の軽皇子(後の文武天皇)に位を譲るべく活動していた時にこの孫に国を治めさせるという話が成立したのではないか、と指摘します。非常に興味深い議論です。

もう一点、またまた梅原氏の論で申し訳ないのですが、面白いのが最終的に大国主神の息子たちを沈黙させた神様の名前です。これが古事記では建御雷之男神になっているのですが、日本書紀では経津主神(ふつぬしのかみ)との2神になっています。

ここで経津主神はもちろん物部一族の神ですが、建御雷之男神は中臣家に関連の深い神です。つまりここで主役を演じたのが建御雷之男神なのか経津主神なのかは、非常に重大な問題を引き起こします。いやしくも天皇家が日本国土を治める元を作った神が物部一族の神なのか、それとも中臣一族に関わりのある神なのか。これも面白い話であるとともに、誰が古事記編纂の裏に居たのかということを示唆しているように思われます。

(という話が面白いのですが、建御雷神も物部一族の神だという説もあるようです。また古事記はこの2神が同じ神であるという説を採用しています。故にここでは建御雷之男神の名前だけが出てくるわけです)

なお、大国主神が国譲りの代償に建てさせた宮が現在の出雲大社であるとされています。もっとも神社というものが建築物として作られるようになったのは早くとも6世紀以降のようですので、当時の宮というのは建築物ではなく、山か島か、そのようなものが与えられたということかも知れません。

またこの国譲りの際に、大国主神は巧みに、現世のことはまかせるが幽界のことは自分が管理すると宣言しており、ここから大国主神は人の心の深い部分を支配し、男女の結婚なども管理するという考え方が生まれています。神前結婚式は明治時代に始まったものですが、これを最初にやったのも出雲大社でした。

大国主神は意外と名を捨てて実を取っていたかも知れません。
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