世界の女神たち(10)天照大神-cont

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written by Lumiere on 97/01/13 07:04
さて、そういう訳で、現在三種の神器の内、天照大神を象徴すると思われる鏡 は伊勢にあり、そこに天照大神が祭られている訳ですが、この伊勢神宮の祭祀 の始まりは次のように伝えられています。

・天照大神の祭祀の独立 崇神天皇の時代(日本書紀の記年でBC97-BC29,貝田禎造の換算でAD315-332) 天照大神と倭大国魂は宮中で祭祀されていましたが、やはり大きな神で普通 に住んでいる場所に祭るには恐れ多いようでした。そこで倭大国魂は渟名城 入姫に、天照大神は豊鍬入姫に託して、適切な場所で祭ることになりました。
 豊鍬入姫は天照大神を大和の笠縫邑でお祭りしました。この笠縫邑の場所と しては三輪山麓茅原の桧原神社を当てる説と田原本町秦庄の笠縫神社を当て る説があります。

・倭姫の巡行 次の天皇の垂仁天皇の時代(日本書紀BC29-AD71,貝田AD332-357)天照大神 の祭祀は倭姫(やまとひめ)に受け継がれました。この時、この神を祭るの にもっといい場所を探そうということになり、倭姫は天照大神の魂代を伴っ て何年にも渡りあちこちさまよい歩くことになります。日本書紀の記事だけ でも宇陀の篠幡・近江・美濃・といったところを巡っており、その跡には現 在「元伊勢」と呼ばれる神社が残っています。

そしてやがて伊勢の国に来た時、神託があり天照大神から「ここは田舎だけ ど波が打ち寄せる美しい国だ。私はここに居たい」という言葉があります。
 そこで倭姫はここに祠を建て、五十鈴川のほとりに斎宮を建てて神をお祭り することにしました。これを磯宮といって、現在の伊勢神宮の発端です。時 に垂仁天皇25年で、日本書紀の記年法でBC5年(-4年)ですので、日本書紀の 「年」の単位で計って、昨年1996年が伊勢神宮鎮座2000年にあたりました。
 これを太陽暦の「年」の単位で計った場合どうなるかはなかなか難しい所で すが、前出貝田式でいくとAD338年頃になります。

・斎宮の場所の謎 さて日本書紀には斎宮を五十鈴川のそばに建てたと書いてあるのですが、実 際には斎宮の跡は五十鈴川からずいぶん離れた祓川のそばに残っています。
 これを鳥越憲三郎氏は持統天皇の時伊勢神宮は祓川のそばから五十鈴川のそ ばに移転したものと推定し、その時斎宮が移転せずに残ったのは当時の斎王 大来皇女の同母弟の大津皇子が持統天皇に殺されたため反発しての事という 推理をしています。しかしこれに対して吉野裕子氏はいかに大来皇女といえ ども絶対権力者であり何人も自分の息子のライバルを葬った持統天皇に勝て る訳がなく、斎宮がそこに残ったのはその必要性があるからとしています。
 なお日本書紀の記述では大津皇子殺害後大来皇女もすぐに斎王の任を解かれ たことになっています。しかしいづれにしても、現在の伊勢神宮が建てられ たのは天武・持統期であることはかなり確かのように思われます。これにつ いては又後で触れます。

・外宮の鎮座 さて、倭姫が天照大神を奉じて祠を建てたのは現在の伊勢神宮の内宮なので すが、伊勢神宮は主として内宮と外宮からなっています。この外宮は豊受大 神(とようけのおおみかみ)をお祭りしているもので、伊勢神宮の祭祀は必 ず外宮から先にやることになっており、一般の人が参拝する場合も必ず外宮 からお参りしなければなりません。

この外宮の鎮座は雄略天皇の時代(日本書紀AD458-479,貝田467-479)の御 神託によるものとされ、丹波国から勧請してきたものです。止由気儀式帳( 804)によれば雄略天皇22年に天皇の夢枕に天照大神が立ち、「一人では不自 由だし食事も安心して食べられないので丹波国の穀神豊受大神を連れてきて くれるよう」にと言ったとのことです。この豊受大神の出自について丹波国 風土記は変わった伝説を伝えています。

それによると丹波国に真奈井という井戸があった。(これは高天原にある井 戸と同じ名前)この井戸に八人の天女が降りてきて水浴びをしていた所、近 くに住む老夫婦がその内の一人の羽衣を隠してしまった。そのため天女の一 人が天に帰ることができなくなって老夫婦とともに住んだ。天女は老夫婦に 万病を治す霊酒を作ってやったので、それにより老夫婦は裕福になり、裕福 になると天女が邪魔になったので追い出してしまった。天女は竹野郡奈具村 へ行き、そこの社にとどまり、豊受大神となった。

この豊受大神は基本的には食物の神様とされています。吉野裕子氏は伊勢神 宮のお祭りが全て外宮から先にやることになっているのは、食物を豊受大神 を通して天照大神に差し上げるからではないかと推察しています。

・天武・持統と伊勢神宮 天武天皇(大海人皇子)は兄の天智天皇亡き後、天智天皇の息子の大友皇子 と皇位を争う壬申の乱に勝利して天皇の地位を得ます。この戦争の舞台の一 つは関ヶ原、900年後に徳川家康が天下を取ったのと同じ場所です。

この時、大海人皇子は隠居の地であった吉野からまず東方面に進行していま す。隠(名張市)から忍者のふるさと伊賀上野の里、そして鈴鹿山脈を越え るのですが実はこの界隈は、鏡の伊勢と剣の熱田を結ぶ線を一辺とする正三 角形の頂点になる場所です。

そして伊勢国を通って三重郡家(四日市市)につき、ここで初めて睡眠を取 ります。そして朝明川のほとりで天照大神を遙拝します。そしてここからい ったん西北の関ヶ原へ行き、そこに集結していた友軍と一緒に西南へ進軍、 大津宮を襲い、大友皇子を倒すのです。後の持統天皇となる、さらら姫は大 海人皇子の吉野行きに同行し、桑名までの強行軍を共にします。むろん彼女 も朝明川では夫とともに天照大神に深い祈りを捧げたことでしょう。

さて、日本という国は昔は「倭」と称していたのですが、ある頃から「日本」
 の国号を名乗るようになりました。これがいつからかというのは幾つか説が あるのですが、その説の中に天武天皇の頃からであるという説があります。
 その根拠の一つは旧唐書で、この中に7世紀後半に「日本軍が倭軍を破る」
 という記事があり、これが壬申の乱の大海人皇子の勝利を意味しているので はないかとされます。

ここで「日本」という字を見てみると、「日の本」ですから、これはいわば 太陽が昇るところということで、これはまさに東の海に面した伊勢の地にふ さわしい感じで、日本という名詞は大海人皇子がこの壬申の乱において幸運 を祈った伊勢との関連を思わせます。また現在に至る伊勢神宮の式年遷宮で すが、これは持統天皇4年に始まったものです。

大海人皇子がわざわざいったん東に出てそこから大津宮を目指した理由とし ては一般には東の方面に大海人皇子が頼れる勢力があったためとされるので すが、それが主な原因であったとしても、結果的にそこで伊勢神宮の天照大 神を遙拝してから戦闘を始めることになったことは天武持統朝と伊勢との関 わりをいろいろ考えさせることになります。

天武は壬申の乱において赤王と名乗り、敵味方を区別するために兵士たちに 赤い布を付けさせていました。そして大海人が東から南へと攻めています。
 これは五行でいうと木(東)が火(南)を生じる方向でつまり火の勢いが強 くなる方角です。そして火はむろん赤に通じます。

また大海人(おおあまと)皇子の「あま」は天照(あまてらす)大神の「あ ま」に通じており、そもそも天照大神が伊勢の地に鎮座した時の倭姫への託 宣でも「波が寄せ来る所」ということで海との関連がありました。また伊勢 神宮への捧げものとして重要なものにアワビがありますが、このあわびは海 のものであり、また「アワ」という音は福永光司氏によれぱ青を意味してお り、青は海の色であるとともに五行で東を表します。

またさきほども話題にした天皇の皇女が伊勢神宮の祭祀をする制度・斎王で すが、この制度は実は倭姫の後、垂仁天皇の次の景行天皇の時代に五百野皇 女がひきついでいますが次の成務天皇の時代以降は途切れてしまい、天武天 皇の時に大来皇女が任命されて復活したものです。ということは実際には、 この天武の時に初めて制度化されたものと考えた方がよいでしょう。この制 度は後醍醐天皇の時の祥子内親王まで続きます。また天武は壬申の乱の時の 協力のお礼として伊勢国の年貢の軽減をしており、持統天皇は伊勢に巡行し ています。(明治以前の天皇で伊勢に行ったのは持統のみ)

このような種々のことから、実は伊勢神宮というのは天武天皇の時に初めて 作られた神社なのではないか、天照大神というのもその時に初めて天皇家が 祭るようになった神なのではないか、という説を唱える人もあるくらいです が、そこまで言わないにしても、天武持統朝において伊勢神宮にかなりテコ 入れが行われ、現在の場所に大規模な建築が行われたのではないか、という 程度の推測はかなり当たっているのではないかと思われます。

また長くなりましたので稿を改めます。


いきなり訂正です(^_^;;

斎王が成務天皇の時代から天武天皇の時代まで途切れていたと書きましたが、 それは誤りかも知れません。雄略天皇の時代に稚足姫皇女を斎宮にしたという 記事が日本書紀にあります。(雄略元年3月)成務天皇かせ天武天皇の時まで 途切れていたというのは斎宮の潔斎所である野宮神社の社伝(吉野裕子・隠さ れた神々への引用)によるものなのですが、日本書紀の方を信用すべきでしょ う。とするとひょっとすると斎宮の制度はずっと続いていたのかも(-_-; 他 にもよく考えてみると私もその存在をよく知っていた斎宮がいました。聖徳太 子の姉の酢香手姫皇女は伊勢の斎王でした。その少し前には欽明天皇の時の磐 隈皇女も斎王を務めています。天武の時に斎宮が復活したなどというのは全く もって成り立ちませんね。

では野宮神社の社殿の斎宮中絶記事というのは、一体何なのでしょうか?? やはり天武・持統の時に何か伊勢に関する大変革があったため、そのような社 伝が生まれた....と考えるのは曲解のしすぎでしょうか。。。。。

(97/01/13 09:23)


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